因果応報について

「因果応報(いんがおうほう)」とは、人の行いには必ずそれに応じた報いがあるという仏教由来の考え方だそうです。善い行いには善い結果が、悪い行いには悪い結果が返ってくるという意味

似たような言葉には、
自業自得・・自分の行いの結果を自分で受ける
身から出た錆
自分で蒔いた種
情けは人のためならず・・他人に善行を施すことは巡り巡って自分に返ること

等があります。「バチが当たる」というのも似たような考え方ですね。

私はこの因果応報という考え方を受け入れています。
算命学や西洋占星術の勉強も、因果応報の考え方を理解していると助けになると思っています。

先日、こんな相談がありました。

Aからとんでもなく嫌なことをされた。
そのため、2晩も眠れないくらい悔しい思いをしたそうで
仕返ししたい、どうにかできないか、今の気持ちをどう晴らしたらいいか・・
というものでした。

往々にして、加害者というのは自分の行為に無自覚です。
この場合も、Aは大したことと思っていないそうなのです。

この方は、「Aにバチは当たるか?」
と聞いてきました。
お気持ちはよくわかります。

結論的には、因果応報でいけば、自分のしたことは自分に返るので
バチは当たるということになります。
ただ、それがどのように返ってくるのかはわからないし、
返ってきたところを見届けることもできないし
Aにしてみたら、あの時やったことのバチが当たった・・とは思わないだろう。

という、気が晴れない答えにはなってしまいます。

でも、私は、間違いなく人間の人生は因果応報だと思っています。
私なりの解釈はこうです。

自分が心からの善意でもって行うことには必ずそれ相当のご褒美がある
人にかけた迷惑、悪意でしたことに関しては、何らかの代償を支払うことになる
でも、「この行為に対してこれ」とは紐づいていないので
気が付かないことがほとんどである。
但し、人生を長い目でみることができれば、それは間違いなくそうなっていること。

もしかして、自分の人生では罰はなくても、
子供の世代に持ち越されるかもしれない。
今自分が受けている悲しい状況は、親の代、もっと前からの持ち越し課題かもしれない・・

こう聞くと、「じゃあどうしようもないじゃないか」「自分ではどうにもならない」と
思われることでしょうが、実際、こういうのはどうしようもないことです。
仕返ししたいと思ったら、その方法やタイミングは天に任せるしかないということです。

この「天に任せる」ということはとても大事です。
自分の手を離さないと天に任せたことになりません。
手を離すとは、忘れてしまうことです。
完全には忘れられなくてもいい、とにかく、いらいらとかもやもやした気持ちを
手離すと良いでしょう。
手元に置いておく内は、天には届かないように感じます。

実は、私はかなりはっきりした因果応報を目にすることができたんです。
それは自分に対してのご褒美だったと感じています。
もうかなり前の話ですが、本当に意地悪な人がいて、さんざんな目に遭ったのですが
その方は当時とても幸せで、私は神様は不公平だなと思っていました。
こんなに人に意地悪をする人がこんなに幸せなんて・・と感じていたのです。

ところが、1年後、どういうわけかその人に再会した際に、その方がひどい目に遭っていたのです。
恐らく、その人にとっては最大級の裏切りに遭っていました。
幸せな人生からの転落・・というような状態でした。
そして、そのことを私に隠したかったのでしょうが、気持ちが弱って話してしまった・・
意地悪をしていた私に、自分の弱みをさらけ出してしまった・・
プライドの高いその人にとってはこのことも悔やんだことでしょう。
私は何一つ手を下していないのです。
ただ、意地悪の仕返しもせず、その人から立ち去っただけ。
1年後再開するまでその人のことを思い出しもしませんでした。
それが良かったのでしょうね。

でも、このことがあってから、因果応報は確実にあると感じたのです。

仕返ししたいと思うくらい強い恨みがあるのなら
その人のことを忘れることが一番です。
忘れて、自分は先へ行く。そこから因果応報は始まるように思います。

「なかなか先生のようには考えられません」
と言われたこともあります。
悔しい気持ちは忘れられない、いつまでも引きずる
と言うのです。
私からすると、嫌な気持ちを引きずるというのは、その人にとって「何かの罰」を
受けているのかもしれない・・ということになります。

全部が巡り巡るのです。
中島みゆきさんの「時代」の世界です。